2008年3月 3日 (月)

写真のチカラ

Imgp8120以前、エプソンのカラーイメージングコンテストに応募しようとして写真作品をブックにまとめていたとき、甲斐くんに「今の流れは点数を多くして、塊としての作品群を見せる傾向にあるから、もっと点数を増やした方がいい」と指摘され、100点以上を目標に作品点数を増やしていった事がある。その時は、デジタルカメラの普及により作品を量産できるようになった事が、その流れを作ったのだなと思って勝手に納得していた。

ところが今日、作品群としての「写真のチカラ」を思い知らされる展示会を観る機会に恵まれた。
南城市の農村環境改善センターで開催されたその展示会は、1950年頃のアマチュア(というよりごく普通の人)が撮った沖縄の写真を約500点集めたものだった。多くは沖縄に駐留していたアメリカ兵が撮影した写真で、そこに写っている人々の多くはもうこの世にいない。小さな子供たちですら、生きていれば60代になっているはずだ。沖縄戦の激戦地だったシュガーローフやチョコレートドロップの写真、軽便鉄道の跡、掘っ立て小屋のような貧しい家々。
1950年に中学校を卒業したというオバアが、ずっと写真を指さしながら丹念に観ている姿が印象的だった。オバアは写真について問わず語りにいろいろな話をしてくれたのだけれど、その多くは歴史の流れとは無縁の日常にまつわるものだった。昔の茅葺きの家は台風で飛ばされないように、屋根に竹で補強をしていたとか…。あるいは、駐留軍の米兵は戦後になって家族を呼び寄せたのだろうかとか…。
丹念に丹念に、人差し指で写真を追いかけていくオバアの後ろ姿を観て、「これこそが写真のチカラだ」と、ふと思った。
残念ながら写真はビジュアルアートの中でもっとも地位が低い。複製可能性や撮影機材の介在が写真の地位を低くしてきたのだと思うが、しかし写真の持つ力は、この局面では絵画を遙かに上回っていたと思う。写真は歴史を記録することができるからだ。そしてその時にこそ、塊としての写真のチカラは人を動かす。オバアは憑かれたように写真を追いかけ、そこに歴史(たぶん、自分自身の歴史であって国や世界の歴史とは違う)を見ていたように思う。そして、大量の断片によって歴史を再現するという事は絵画にはできず、写真にのみ与えられた力だと思う。

この展覧会は、5月10~18日にふたたび開催される。
展示内容を少し変更して、会場を中城村の吉の浦公園に移して開催されるそうだ。
沖縄に引っ越して以来イチオシの展示会なので、興味のある人にはぜひともおすすめしたい。

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2007年10月 3日 (水)

平和省プロジェクトなど

Imgp0802昨日、琉球大学で開催された、平和省地球会議沖縄シンポジウムに行ってきた。平和省というのは、「地域や家庭内の暴力から国際紛争にいたるまで、あらゆる争いごとを創造的対話によって解決するための方法を提案、推進する政府機関です。それは単なる夢物語ではありません。ネパールとソロモン諸島には既に存在し、コスタリカでも間もなくできる見込みです(JUMPのチラシより)」というものらしい。

このシンポジウムは、残念ながらおもしろくなかった。
パネリストの話に客観性がなく、また論点としても胸躍るような新しい何かを提案しているように思われなかった。下にリンクをはったJANJANの記事がよく雰囲気と内容を伝えている。

【参考】JANJANの記事

ただ、パネリストのひとり、平良夏芽さん(男性)の話の中に、鋭い考察があったように思う。この方は牧師さんで、辺野古の新基地建設阻止行動を続けているらしい。その中で、政府に何度も命を狙われたと、自ら述べている。
さすがに命をはった活動をしているらしい、いかつい印象だったが、そんな彼もやはり検定意見の撤回を求める超党派の沖縄県民大会に参加したらしい。だが、彼はそこで「むしろ今の沖縄は危ない」と感じたそうだ。あんなに多くの人が集まったことは、むしろよくないと考えているらしい。

確かに、あの県民大会は特殊な雰囲気だった。
沖縄と日本本土の間の温度差や意識の差は意外に大きい。今日、会社の女の子(20代)に「県民大会には行ったの?」と尋ねたら、「ごめんなさい、行けなかったんです」という返答が帰ってきた。
県民なら誰もが行かなければならない…くらいの勢いがあったと思う。ある意味、沖縄ナショナリズム的な気配があるようで、それが今後どうなっていくのか気になる。

平和省プロジェクト
平和市民連絡会(平良氏について)

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2007年9月30日 (日)

ウタゲのあと -- 検定意見の撤回を求める超党派の沖縄県民大会

Imgp0729ふたつの意味で、ウタゲのあとを追いかけた日曜日だった。
ひとつめは、昨日、9月29日に『沖縄戦で日本軍が住民に「集団自決」を強制したとの記述が教科書検定で削除された問題で、検定意見の撤回を求める超党派の沖縄県民大会』が開催された宜野湾海浜公園のその後を、写真におさめに行ったこと。11万人を集めたと発表されたこの県民大会は、復帰後最大規模だったそうだ。しかし、一夜明けた今日の海浜公園は静かだった。
テレビで中継を見た限りでは、海浜公園からあふれるくらいの県民が集まり、仲井眞知事が堂々たる演説をしていた。現職の知事が検定意見の撤回を求める声明を発表するなど、他府県ではめったにお目にかかれない光景だと思う。開会の挨拶は県議会議長だった。沖縄は県をあげて、検定意見撤回を訴える姿勢を示した。
Imgp0750 その沖縄の主張に対して、「証拠がない」「根拠に乏しい」とする反論がある。ネット上で、とくに多くのBLOGで、そういう意見を目にした。だが、それもまたピントをはずした意見ではないのかと思う。沖縄に住む限り、折に触れて自分が沖縄人ではないことを自覚させられるのだが、沖縄と日本との間に横たわるその溝の深さをはからないことには、適切な答えを導き出すことはできない。
Imgp0753 もうひとつのウタゲは十九年前に終わったあの時代だった。
日本では昭和が終わり、平成という時代が訪れた。内平らかに外成る時代。1989年に始まったこの時代の変化をいち早く国民に感じさせたのは(感じなかった人も多いかも知れないが)、皮肉なことに1991年の湾岸戦争だった。我々にも覚えのある昭和という時代は、とりあえずまだ「戦後」だったし、戦争には反対する時代だった。中学校では教師に原爆の歌を教わって、みんなで歌った。卒業式に国歌は聞かなかった(気がする)。「はだしのゲン」は誰もが読んだし、自衛隊はちょっと違憲ぽい感じがしたし、革マルや民青はまだ活動していたし、ソ連も崩壊していなかった。「愛国心」なんていう言葉は、ちょっとダサかった。だがあの時代の方が、まだ内も外も平らかだったのではないか。
その時代に小渕さんがガラガラと幕を引き、内平らかに外成る時代の到来を告げたのだった。以来、PKOもオッケー、イラクへの海外派兵もオッケーな国への道を歩んでいる。別にそれが悪いとかは言わない。ただ、日本はそのように「戦後」を脱却し、昭和を置き去りにして進んできた。
Imgp0755 沖縄では、昭和は終わっていない。
キャンプ瑞慶覧のフェンスから見える広大できれいな米軍住宅と、対照的に狭苦しい県民の住宅街を見ると、沖縄はまだ戦後だと言うほかない。沖縄は戦後の安全保障体制の枠組みに取り込まれ、そのまま日本に返還された。
そして、いま、沖縄は日本に対して怒っているのだと思う。検定意見がどうのというのは、沖縄の怒りを表す手段の一つではないかと、昨日も感じた。テレビ中継で放送された声明の一つに「沖縄がまた捨て石にされる時代が来る」という趣旨の一節があった。沖縄は、そのことを感じているのだと思う。
内平らかに外成る時代において、外と内の境目に存在する沖縄は、いつも戦争のためのキーストーンだった。ベトナム戦争では、ここから飛び立った米軍が戦争をした。イラク戦争でも、ここから飛び立った米軍が戦争をした。米軍はそのほかにも、久米島沖で劣化ウラン弾を1000発ほど撃ちまくったり、いろんな事をしている。
そんなわけで、日本では「昭和はいつか終わったウタゲ」と思われているが、沖縄ではまだ昭和は終わっていない。人々はまだ、まっすぐに戦争に反対する心をもっている。なぜなら、沖縄は、戦争が始まったらまた捨て石にされることを知っているからだ。
Imgp0736 検定意見はひとつのきっかけだと思う。
そんなことを考えながら広大な芝生の公園を歩いていて、ひとつだけプラカードが残されているのを見つけた。「沖縄県民斯く抗議せり。後世特別にご記憶あらんことを」。大田少将が海軍次官にあてた電文をもじったこの言葉が、意外に本質を表しているような気がした。
沖縄のことを覚えておけと、彼らは言っているのだ。

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2007年8月20日 (月)

中華航空機炎上

Imgp5630会社の前から黒煙が見えたので、社長とともに車で飛び出した。那覇空港の方向に、ちょっと大規模な感じの煙が見えて、警察の交通整理が始まっていた。車で突っ込めるところまで突っ込み、そこで社長をおろして、車を預かる。結局、空港近くのガソリンスタンドに駐車させてもらった。
そこからは、ひたすら走った。
Imgp5640 中華航空機は那覇空港の41番スポットで炎上していた。黒煙は大きくたなびいていて、時折小規模な爆発音が聞こえる。我々が到着したのは11時前で、すでに消火活動が始まっていた。最終的には、那覇市や豊見城市などの地方自治体から32台、航空局から6台、自衛隊から8台の消防車両が出動し、炎上する機体を取り囲むように消火することになるのだが、この時点ではまだ数台の消防車が消火に当たっている状況だった。
Imgp5641 現場にいるとどういう状況かがよくわからない。死者が出ているのか、けが人がいるのかもわからないが、なぜか見学している人たちはにこやかに笑顔で会話しながら、花火を見るような雰囲気だった。子供を肩車している人までいた。
警官だけが緊張している。この写真の場所も、すぐに警察によって閉鎖されたが、見物客はなんとなく不満そうに帰って行った。どこへ帰って行ったのだろうか? けっこうな人数がいたのだけど、彼らは観光客? それとも地元の人? よくわからない。
Imgp5694 結局、今回の中華航空機炎上事故ではけが人も(ほとんど)なく、死者はゼロだったので、談笑しながら見物していた人たちがいたとしても深刻に憂慮する必要もないと思う。
が、この事故は何だったんだろう? というのが、現場に行ってみた感想だった。こちらのブログでは、「きっと現場に居た人たちにはこの世のオワリに見えたことでしょう。」と書かれていて、きっと現場にいなかった人はそういう風に想像するのだと思うけど、現場の混乱はたいしたことなかった。ただただ、「この事故は何だったんだろう?」と、終始思っていた。なんだか、燃えている理由が全然わからなかったし、大事故なんだけど大事故であることがピンとこない。

最後に、那覇空港事務所の記者発表から。
時系列を整理すると、
10時27分着陸
10時32分乗客が脱出開始
10時33分頃滑走路閉鎖
11時00分滑走路閉鎖を解除
11時37分鎮火
と、いうことになる。第2エンジン(機体右側)から出火したらしいという発表だったが、記者発表(午後1時)の時点では確認がとれていないようだった。ただ、機体は左側が真っ黒に焼けているように見えた。飛行中に緊急状態の宣言などはなく、乗客の証言からも、どうも着陸後に機体が41番スポットに停止してから出火したらしい。

事故の理由を現在国土交通省の鉄道・航空事故調査委員会が調査中らしいが、どこまで究明できるのかが気になる。なんだか、今考えても、燃える必然性がないように思えるからだ。

【続報】
レスキューナウに続報あり

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2007年6月23日 (土)

慰霊の日

Imgp019112時ちょうどにサイレンが鳴って1分間の黙祷が始まり、その間、シャッターに指をかけていたけど押せなかった。尊敬する吉田ルイ子の言葉が頭の中をぐるぐるまわっていた。「写真を撮ろうとして人とかかわってはいけません。人とかかわるなかで写真を撮りなさい」。

今日、糸満の図書館が閉まっていたので、せっかくだからと喜屋武岬に足を伸ばしたら部落の人たちが岬に集まっていた。慰霊の日の黙祷を捧げるために、30人くらいの人たち(若い人はいなかった)が1時間ほど前から日陰に座っていた。おれは二人のおっちゃんから、戦争の時の話を聞きながら、その輪の少し外側で12時のサイレンを待った。
Imgp0181 おっちゃんたちの一人は「座りなさい」といって、戦争の時の話をしはじめた。「日本人は悪いからさ」と、おっちゃんは言った。9歳の時、おっちゃんはこの青い海のそばのガマに潜んでいた。そのガマでは、巷間言われている日本軍の悪行がすべて行われていた。赤ん坊はじゃまだからと毒薬を注射して殺され、軍人は生きるために民間人の着物を奪ってガマに潜んだ。おっちゃんたちは食べ物もなく、水もなく死線をさまよった。大人はおしっこを飲み、子供たちは雨水を飲んだ。米軍は崖の上から日本軍と民間人を攻撃し、「デテコイ、デテコイ」と呼びかけた。だが、出て行った人は射殺された。日本軍の三八式歩兵銃は、玉が届きさえしなかった。
Imgp0182 この青い海には、沖合で死んだ海軍兵士の死体がたくさん流れ着いていた。おっちゃんたちは長い間ガマにこもり、そんな風景をたくさん見た。白百合部隊が民間人の怪我を治療することは一切なく、それどころか担当する部隊が違えば、同じ陸軍の軍人の治療も拒んだという。梅雨時の沖縄で、負傷した人たちの傷口にはすぐに蛆がわいた。

Imgp0178 正午のサイレンを待つ間、岬にはNHKラジオがながれていた。摩文仁の丘の安倍総理の様子を中継するアナウンサーの声が聞こえた。別のおっちゃんに「摩文仁に行った方がよかったんじゃないの?」と言われたので、「今日は安倍総理の顔は見たくないですよ」と答えた。おっちゃんは笑顔を見せ「そうだよ、そうだよ」と言った。本当に、この日だけは、あの人の顔を見たくないと思った。

Imgp0174 そして話は冒頭のシーンに戻る。
サイレンが鳴り、黙祷が捧げられた。おれは何を撮るべきかよく分からなかった。だが、ここにカメラマンは他にはいなくて、新聞社の人たちは摩文仁にいるに違いない。
撮るべきものは少なくとも安倍総理の顔じゃなく、おっちゃんのような気がしていた。9歳で死線をさまよい、戦争のすべてを見てきたおっちゃんを撮るべきだと、黙祷のあいだに考えた。

Imgp0177 帰る時、おっちゃんに声をかけて名前を聞いた。だけど名前は教えてくれなかった。写真を撮らせて欲しいというと、いいよといって頭に巻いていた手ぬぐいをとった。
だが結論から言うと、おれにはおっちゃんの写真は撮れなかったのだ。このエントリーの1枚目の写真は確かにあのおっちゃんだけど、おれが撮らねばならなかった写真ではない。9歳で死線をさまよい、戦争のすべてを見てきたおっちゃんではない。ただの、喜屋武に住む普通のおっちゃんだ。これでは。
Imgp0185 ユージン・スミスがここにいれば、そんなおれの写真になんと言っただろう? そしてここにいさえしない、新聞社のカメラマンに、なんといっただろう?
岬から帰る車の列をノロノロと追いかけながら、暗い気持ちになった。自分の写真のイケてなさと、日本という国のイケてなさ。そして日本のジャーナリズムのイケてなさ。
でも、少なくとも摩文仁に行くより喜屋武に行ってよかったことがひとつある。明日、日曜日の喜屋武ハーリーを見に行くと、おっちゃんたちと約束したからだ。朝9時、漁港で、もう一度おっちゃんたちの写真を撮るチャンスが巡ってくる。


※このエントリーは証言に基づいて書かれていますが、裏付け取材を行っていません。複数の資料、複数の証言にあたってください。最近の比嘉豊光氏の仕事などが役に立つかも知れません。

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